初めて観戦ガイド

NEWSニュース

2024.08.11
チーム

【特別インタビュー】諸葛彬 ラグビーを奪われてから~絶望の先に見つけた幸せ~

2014年、24歳で韓国から来日。
NTTコミュニケーションズシャイニングアークスに入団をし、CTBとして活躍をした諸葛彬(ジェガル・ビン)さん。
2016年トップリーグの試合中に脳梗塞で倒れ、そのままラグビー人生を終える事となりました。
現在浦安D-Rocksでスタッフとして働きながら講演活動をするビンさんに、「毎日をポジティブに生きるためのコツ」や講演活動に込める想いを聞きました。

①.jpg

「残念ですが、もうラグビーは出来ません」

―今日は、ラグビーが出来なくなってからこうやって自分の経験を人に話せるようになるまで、ビンさんがどのような道を歩んで来たのかをお聞き出来たらと思います。
試合で運ばれて緊急手術をして、目が覚めたのが1週間後だったとの事ですが、その時はどんな気持ちでしたか?

ジェガル・ビン
目が覚めた時は何の感情も無くて、お母さんと弟が泣いている声だけが耳に響いていました。
脳の状態が良くなかったので、あまり何かを考えたりする事が出来ず、ずっと天井だけを見続けて寝たり起きたりするだけでしたね。
3週間くらいして一般病室に移ってから意識が戻って来て、自分に起こった事を理解して辛くなりました。
その時は今のように座ることも出来なかったし、自分はもう終わったのだと思いました。

②.jpg

手術から1か月後くらいですかね。会社の方々と私の担当医で面談をする機会がありました。
会社の方は、私に障がいが残ってもスタッフとして受け入れてくれると言って下さって、
有難い反面、私はまだどこか、頑張れば選手として復帰出来るのではないかと思っていました。
その面談の際に、医師からMRIの脳の画像を見せられました。
右の脳の40%が損傷していて、それは素人の自分でも分かるくらい酷い状態で、ビックリしてしまいました。
いつもラグビーをする時は「命をかけてやる」という気持ちでやっていましたが、
これは本当に死んでいたかもしれないのだと、その時初めて分かりました。
そして医師から「ビンさん、残念ですがもうラグビーは出来ません」と言われ、希望を絶たれました。
キャリアチェンジを提案してくれた部長さんに「ありがとうございます」と言いながら、その時に初めて泣きました。泣いたのはその時が最初で最後でした。

「チームメイトが私のために頑張ってくれたから、自分も生きようと思いました」

―そこからはどんな日々を過ごしていましたか?

自分にはもう何も希望が無いと思ってリハビリも辞めました。
最初にリハビリを頑張れたのは、ラグビー選手として復帰できるかもしれないという希望があったからで、それが無くなった以上、頑張る事が出来ませんでした。
その後、私は自分のモデルになるような人を見つけたいと思いました。
脳梗塞になった人がどれくらい回復したのか、動画や本などを探して何か希望を貰えないかと、
必死で探していました。
しかし、見つかりませんでした。
同じような症状の人たちは、みんな寝たきりか、亡くなっているような状況でした。
絶望的な気持ちになり、1日に何回も死にたいと思うようにもなりました。
死にたいというより、「あの時死んでいたら良かったのに」と思っていました。
家に引きこもっていた時期が結構ありましたね。
そんな時、チームのみんなが私にLINEをくれました。
「ビンのためにみんな試合をしている。だからビンも頑張って」と、私のジャージを毎試合ロッカールームに
かけてくれている映像を送ってくれました。
みんなが私のことを待っているし、私の絶望的な状態を知っても私の事を信じてくれる。
「私のために皆が頑張っているのに、チームメイトの私が諦めるわけにいかない」と思って、
またリハビリを再開する事にしました。
チームメイトが本気で私の事を応援してくれる姿を見ながら、私は1人じゃないと思えました。
皆が私の事を応援してくれるから、ちゃんと回復する姿を見せたいと思って自分に出来るリハビリをずっと続けました。

③.jpg

―自分はラグビーが出来なくなった状態で、ラグビーを続けている仲間からのメッセージは素直に受け止める事が出来ましたか?

そうですね。もちろん一緒にプレーが出来ない悲しさはありましたが、皆が本気で、試合で勝利をする事で私を励まそうとしてくれたのが伝わったので、悲しさはなくなりました。
みんなも私を応援する事がモチベーションになってくれていたようです。
私は現役時代からチームメイトやスタッフを愛していて、家族のように大切に想っていました。
後輩は自分の弟のようだし、スタッフは自分たちの行く道を作ってくれる大事な存在だったので、そこで距離を取りたいとは思わなかったです。
その時に気づいたのは「言葉よりも心は伝わるんだな」ということでした。
上っ面の言葉だけじゃない、本当の心が伝わったからこそ、辛くてもそれを思い出して諦めずに頑張る事が出来ました。

④.jpg

「試合に出ないと価値が下がると思って無理をし続けていました」

―そこからかなりの回復をしたんですよね。

最初、医学的には起き上がる事も難しい、寝たきりの生活になるだろうと言われていました。
このレベルの損傷をして、ここまで回復出来たのは奇跡だとビックリされます。
最初は身体の麻痺以外に、日常生活にも支障が出ました。
記憶が飛んだり、認識の障害で目の前のものが見えなくなったり、道が分からなくなったり。
リハビリは2年間受けて、あとは自分でトレーニングをしました。
大体の内容が分かったら、あとは選手の時のリハビリを思い出して、筋肉に対して一番良いアプローチをする事が出来ました。ラグビーをやっていて良かったですね。

―倒れる前、不調は現役の時から感じていた?

そうですね。感じてはいましたが、止まれない状況でした。
私の家は小学校6年生の時に母と弟の3人になって、そこから自分が大黒柱として生きて来ました。
母は私の事を頼りにしていましたし、私がいつも元気でいなくてはいけない。
経済状況が良くなく、借金を返せなくて、家に差し押さえの紙が貼られたりしていました。
それを見た時に「自分がやるしかない」と思いましたね。
私は成功してラグビーでお金を稼いで、誰よりも頑張らないといけない。
そういったプレッシャーがありました。
なので、日本に来てプロになったからには試合に出ないと自分の価値は上がらないし、契約が更新できなければ他に稼げる場所は無いから、家族を養えない。
この競争に負けるわけにいかないと思いました。
本当は少し休んでリカバリーをしないといけないのに、怪我しても注射を打って試合に出たり、脳震盪で数週間出られない時も「別の選手が自分のポジションに入ったら」と思うと怖くなって、不調を言えなくなったり。
自分を商品だと思ったら、沢山使える商品になりたかったので、その不安とプレッシャーから無理をするようになっていました。

⑤.jpg

「『頑張っているね』じゃなくて『大丈夫?』と声をかけてあげてほしい」

―そうして倒れてしまった訳ですね。こうやって今、自分の経験を人に話せるようになるまでにはどれくらいかかりましたか?
4年くらいですかね。

最初、歩けるようになればいいと思っていたけど、少し走れるようになった時に心が変わって来ました。
「私が誰かの希望になりたい」私が友人たちに心で伝えて貰って諦めずに頑張れたように、
私が誰かの希望になって絶望から連れ出してあげたいと思うようになりました。
そこで私が個人的にやっていたのは、自分のインスタグラムに「#脳梗塞」とハッシュタグをつけて
リハビリの過程を載せる事でした。
なんとなく始めた事でしたが、予想外に沢山の人たちからメッセージが送られて来ました。
「どうすればこんなに歩けるようになりますか?」と色々と質問をくれたりして、
自分の意図が伝わった気がして、もっとちゃんとやろうと責任感を感じるようになりました。
周りに対しての気持ちも変化がありましたね。
最初はラグビーを見るのが辛い時があって、クラブハウスで仕事をしていても席から離れずに練習の様子を見ないようにしていました。
だけどいつしか、私の仲間たちが楽しく走っている姿を見ながら「代理満足」というか、私はラグビーが出来ないけれど「私の代わりに仲間が走ってくれている」と、慰められているような気持になりました。
今ラグビーをしている選手のみんなには幸せになって欲しいという気持ちが強いです。
私のように脳震盪を抱えている選手も多いけれど、「やらなきゃいけない」「やりたい」という気持ちで心のバランスを取るのが難しいと思います。
無理をしそうな時は、メディカルの皆さんが「ビンみたいになりたいのか」と言ってくれるようになりました。
あとは、ラグビー界全体の話ですが、リカバリーのことも大切に考えて欲しいですね。
日本も韓国も、頑張っている選手に対して「素晴らしい」という評価をする人が多いけれど、「なぜその選手がそんなに頑張るのか」の心にも寄り添って欲しい。
自分も現役の時はメンタルの調子を崩していて、人に止められるまで過剰に練習をしてしまっていました。
その時に「頑張っているね」じゃなくて「大丈夫?」と声をかけて貰えたら、また違ったのかもしれない。
頑張る姿だけじゃなくて、心を見てくれる人が居たら良いなと思います。
なので、頑張っている選手には個人的に「何かプレッシャーとかない?」と声をかけるようにしています笑
「頑張りすぎると俺みたいになるよ」と、経験を話せるのは良いなと思いますね。

⑥.jpg

「一番幸せなことは、自分の過去の過ちをこれからに活かせる事です」

―そこから講演活動も始められましたよね。

はい。4年前くらいから少しずつ始めて、「幸せな障がい者」というテーマで話をしています。
それをきっかけに「幸せ」についてもより考えるようになりましたね。
そういうテーマで話しているから無理やり幸せな姿を見せるのではなく、本当に幸せなのだという事を心から伝えたいと思うようになりました。
なので、普段の生活の中でも幸せを沢山感じていたいというか、小さな幸せを見つけるようにしています。
自分の知らない人でも、楽しそうな姿を見ると「あの人楽しそうだな、その楽しさがずっと続いて欲しいな」と思うようになったりして、そういう気持ちが自分を幸せにしてくれています。
「選手が元気に怪我無くラグビーをしてほしいな」という想いだったり、幸せそうな家族や笑っている人を見ると自分も嬉しくなったり、そういう気持ちに気づいてから、より幸せだなと感じるようになりました。
あとは、先の事を考えるよりも今を幸せに生きようと思うようにもなりました。
今こうして話していても1時間後にはどうなっているか分からないし、私のような事が起きるかもしれない。
今を楽しく幸せに生きられたら、10分後・1時間後も幸せになれる。その幸せが続いて行くのではと思うようになりました。
私が感銘を受けた本に「過去に留まっていると前に進めない、未来だけを考えると今が見えなくなる。だから今この瞬間を楽しく生きよう」というものがありました。
毎日を楽しく過ごすコツは、小さい事でも人に喜んでもらえる事をする事ですかね。
突然コーヒーをプレゼントしてみたり笑 人の笑顔を見る事が好きです。
なので、講演を聞いた方々が喜んでくれるのもとても嬉しいし、むしろ私が幸せを貰っています。
人に気持ちを伝えたいという想いで、日本語も上達した気がします。
先日、日本語検定の1級を受けて、日本語は自分の武器になりましたね。ありがたいです。
他にも最近はビジネス系の資格にも挑戦しています。
でも、頑張りすぎる所は少し治ったかもしれません。自分をセーブ出来るようになりました笑
私には後悔している事があって、
以前、私は頑張っても出来ない人に対して「努力が足りない」と酷い言葉を向けてしまう事がありました。
自分に向ける厳しさを人にも向けてしまっていたんですね。
半身麻痺になって、「自分がいくら頑張っても身体やメンタルが言う事を聞かない」という経験をして、
自分が間違っていた事に気づきました。
まるで自分が全て出来るような気になってしまっていたという事を後悔して、深く反省をしました。
そして、そういう厳しい言葉を向けてしまった人たちに連絡して「あの時は申し訳なかった」と謝りました。
一番幸せなことは、自分の過去の過ちをこれからに活かせる事です。
本当に大切な事に気づかせてくれたこの経験に今は心から感謝しています

⑦.jpg


「もし脳震盪になる事が分かっていても自分はラグビーをやっていた」というビンさん。
困難を乗り越える過程で、沢山の気づきを得る事ができました。
「この経験を誰かの幸せに繋げられたら」という想いで講演を行っています。
話を聞いてみたい、という方は是非お気軽にご連絡を下さい。お待ちしています。
お問い合わせ先:bin.jiegul.rz@urayasu-d-rocks.com

  • TOP
  • NEWS
  • 【特別インタビュー】諸葛彬 ラグビーを奪われてから~絶望の先に見つけた幸せ~